銀次郎ブログ

都内の大学1年生です。拙い文章になりますが、本や映画の感想をメインに書いていきたいと思います。

【映画の感想】#1 マトリックス

導入の記号がズラーと連ねられているところから映画が始まる。トリニティがエージェントに追われるシーンが最初にあるが、そのエージェントの格好といい走り方がテレビ番組のハンターに似ていてもしかしてここから着想を得たのかなとか思った。場面は変わり、そこから白いうさぎを追えとパソコンから指令が下り、何のことだか分からないまま巻き込まれていくキアヌ・リーヴス演じるネオと視聴者である自分を重ね合わせることができる。白いうさぎを追っていった先にはトリニティがいて、マトリックスについて教えようといわれる。その後、エージェントに追われ、モーフィアスの指示でビルをつたって逃げろと言われるが、恐怖のあまり逃げることができず捕まってしまう。そこでエージェントに、表の顔であるアンダーソンとは別に裏の顔でインターネット犯罪を起こしているネオを引き合いに出され、モーフィアス捜索の協力を迫られる。エージェントに追われているときには、「何も悪いことしてないのに」とかほざいていた割にはがっつり犯罪を犯していたわけである。協力を拒むと、口を塞がれ腹に虫を入れられる。そこで初めてエージェントの恐ろしさが垣間見れた。色々あってモーフィアスに会えたが、赤のカプセルと青いカプセルのどちらを飲むか迫られ結局赤を飲む。この前に、モーフィアスから運命を信じるかと質問をされ、人生の主導権を握られたくないから信じないと答えている。赤いカプセルを飲んだのは真実を知りそこから自分で選択肢を得たかったからなのだろうか。預言者からネオは救世主ではないことを告げられるが、捕まっていたモーフィアスを救出後に、一人エージェントと対峙することになる。それまでの過程でモーフィアスはもちろんトリニティもネオのことを救世主であると信じるようになっていた。そこで、エージェントから逃げ出すという選択肢もあったはずだが、これは、人生の主導権を握られたくないというネオのポリシーで仮想現実世界を支配し人間の生の主導権を握っている人工知能に対する反抗意識からの行動だと感じた。やはり、アクションシーンは圧巻のものがあった。マトリックスのアクションシーンでカンフーが出てくるのは少し意外だった。かの有名なネオがエージェントがうった銃弾を避けるシーンは子供のころよく真似したものだ。CGではなくワイヤーアクションだからこそより迫力があるのかも知れない。また、ネオがエージェントスミスに駅のホームから落とされ轢かれそうになる場面で、スミスに「さようならアンダーソン君」と言われ、「俺の名はネオ」だと返している。これは、表の顔である優秀な会社員としてのアンダーソンから決別し、完全に裏の世界で生きるということを意味しているのではないかと思った。この後に、スミスに殺されかけられるが、洋画お決まりのキスをトリニティからうけ、復活し覚醒する。ここで、完全にアンダーソンからネオへと覚醒と思われる。このあとネオが、スミスに殴り掛かられるが最初は両手を使っていたものの、片手で十分であると悟り片手で軽くあしらい、エージェントからうけた弾丸も「no」(日本語訳では『無駄だ』)と言いすべて止めて見せたのも非常にかっこよかった。この映画では、マトリックスの世界でダメージを受けると現実世界でもダメージを受けるようだ。ほかの作品で比べてみると、「インセプション」では夢の世界で死んでも現実世界に戻れるだけで死ぬことはない。また、「新世紀エヴァンゲリオン」では、シンクロ率が高い程エヴァがダメージを受けると、自分もダメージを受ける。この点では少しエヴァと似ているようだ。また、人工知能が人間の上に立ち生態系の秩序を守ろうというのは、日本の漫画である「寄生獣」と少し似ているかもしれない。スミスは「人類は、ほ乳類とは似ていない、ウイルスと同様の存在だ」という。寄生獣にでてくる広川は「人間どもこそ地球を蝕む寄生虫!!いや・・・・・・寄生獣か!」という。この人類の存在する意義に対して問題提起をしている点は少し似ていると感じた。この映画は単純に、sfアクション映画というわけではなく、そこに存在し認識できているものは本当に実在しているのかというようなは哲学的な問題をはらみ、また人間はこのままでいいのかという問題も投げかけているように思えた。今、VRなどがはやり人間の世界からマトリックスの世界に歩み寄っているような気がする。そう考えると、モーフィアスにどちらのカプセルを飲むか迫られたとき、真実を知りマトリクスに勝負を挑むよりは、青いカプセルを飲み、何も知らず今のままでいることのほうが幸せなのかもしれない。